名医華佗 赤壁疫病

三国志の赤壁の戦い

魏の陣営に疫病が流行る。はて?この疫病は何だったのか?
傷寒とひとくくりにされる急性悪性熱性病らしいが 今でいう、インフルエンザ、マラリア、腸チフス、はたまた寄生虫等ではないかと言われる。今では珍しくなった寄生虫だが当時戦時下、生の川魚を食したり豚の生肉を食べる様子も有る。

三国志時代の名医華佗

漢方薬、鍼灸に通じ外科手術、産科術もこなしたという。嫁姑問題で有名な花岡青洲が初めて麻酔薬として使った痲沸蕩より遡ること1000年以上前に華佗は痲沸散として手術に使っていた。ただ蜀の名将関羽が敵の矢じりについたトリカブトの毒で苦しんでいた時の手術で華佗は麻酔を使っていない・・関羽が断ったのか?

三国志、魏の曹操が華佗の名声を聞きつけお抱え医にした。しかし曹操は華佗を最後は処刑してしまう。原因は諸説あるが華佗が曹操の命令に従わ無かったか曹操の頭痛に開頭術を申し入れたせいで逆鱗に触れたか。
(この逆鱗の鱗は龍のうろこで有るようだ)
華佗処刑後曹操が一番可愛がっている自身の子供の病気を治すことができたのは唯華佗ひとりだったことを知って殺してしまったことを悔むのである。

ところで古代中国の歴史では、上に立つ者に従わないものは速攻で処刑されてしまう。
中国を初めて統一したのはご存じ秦の始皇帝である。秦の前はその残酷さで知られている殷の紂王を倒した姫昌が作った周である。周は人間性善説の立場に立った儒家思想をもとにできている国家である。

始皇帝は儒教を排し徹底的な法家主義を貫く。

法家主義とは人間性悪説に基づき 人間はどうしようもないものであるから法で縛らないといけないという考えである。そのもとになった書物は韓の韓非が描いた韓非子である。始皇帝は韓非子を読んでこの作者に会えれば死んでもいいと言ったとか・・

この韓非子は王は法であるという主張である。いわゆるマキャベリズムである。君主論を書いたマキャベリの1700年も前に中国でこのような理論が編み出された。

ただ君主論は孫子、韓非、儒家の要素が合わさったものである。

話を戻して秦の始皇帝は徹底的な法家国家を目指したが結局その縛りのせいで窮鼠猫ををかむ民衆の蜂起によって国が乱れ楚漢戦争の結果、劉邦率いる長期政権「漢」にとってかわられる。

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